英国で愛されたスパークリングアルコール飲料「ベビーシャン(BABYCHAM)」は、特に女性たちの間で親しまれ、その存在感は今もなお語り継がれています。近年、再び注目を集めているこの飲み物の歴史と、1953年の発売以来の英国社会と文化の変遷との関わりを探る旅にご案内しましょう。本稿では、ベビーシャンの誕生から隆盛、そして現代への復活に至るまでの道のりを、当時の社会背景と共に紐解いていきます。



シャワーリング社とベビーシャンの誕生
ベビーシャンの物語は、サマセット州シェプトン・マレットに拠点を置くシャワーリング社(Showerings Ltd.)から始まります。シャワーリング家は、1658年以来、14世代以上にわたり飲料業界に携わってきた由緒ある家系です。1940年代、アーサー、ラルフ、ハーバート、フランシスの4兄弟が経営していたシャワーリング社は、ビールとサイダーの製造を行っていました。
その中で、化学の訓練を受けたフランシス・シャワーリングは、ペリー(梨を発酵させたサイダー)の無菌ろ過プロセスを開発し、製品の保存期間を延ばすことに成功しました。彼は、サイダー製造の改良を目指して果汁の発酵を研究する過程で、ペリー梨から美味しい飲料が作れる可能性を発見します。この技術革新が、後にベビーシャンとして知られることになるスパークリングペリーの開発につながりました。
ベビーシャンの命名には、興味深いエピソードがあります。当初、「シャンパーニュ・ド・ラ・ポワール(Champagne de la Poire、梨のシャンパン)」と名付けられましたが、兄弟たちは名前が長く特に混雑したパブで飲み物を注文する際に発音しにくいと感じていました。
広告代理店が工場を訪れ、新しい名前を考えようとしましたが、何時間もアイデアを出し合いましたが、なかなかアイデアが浮かびませんでした。
会議の終わり頃、工場の輸送責任者が兄弟に尋ねました。「ベビーシャンパンをどこに送りたいですか?」 製造スタッフは、シャンパーニュ・ドゥ・ラ・ポワールの大きなボトル(750ml)を「ビッグシャンパン」、小さなボトルを「ベビーシャンパン」と呼んでいました。これをヒントに「BABY CHAM」が誕生し、定着しました。
ロゴの鹿は、中国水鹿(Chinese Water deer)にインスピレーションを得て作られました。Chinese Water deerは1870年代に初めてイギリスに輸入され動物園で飼育されていましたが、だんだんと数が増え今は野生化して数多く生息しています。
1950年代のイギリス社会と飲酒文化
ベビーシャンが発売された1950年代のイギリスは、第二次世界大戦後の復興期にありました。1954年まで食料配給が続くなど、生活はまだ困難な面もありましたが、徐々に豊かになり、テレビをはじめとする消費財が普及し始めました。このような社会状況が、新しい消費財であるベビーシャンの登場と普及を後押ししました。
当時の飲酒文化においては、パブは伝統的に男性中心の空間であり、女性が公然とアルコールを飲むことは、まだ一般的ではありませんでした。女性がパブで注文できるアルコール飲料は限られており、ポートワインにレモンを加えたものや、ミルクスタウトなどが主な選択肢でした。これらの飲み物は、現代の感覚からすると、必ずしも魅力的とは言えませんでした。
一方、1950年代には、女性の社会的な役割にも変化が見られました。戦時中、男性の代わりに多くの女性が労働力として社会に進出し、自立心や社会参加への意欲を高めていました。終戦後も、女性たちはより積極的に社会生活に参加するようになり、パブを訪れる機会も増えていました。しかし、依然として、女性が一人で、あるいは女性同士で気軽にパブでアルコールを楽しむことは、社会的に容認されているとは言えませんでした。
このような背景の中で、ベビーシャンは、女性にとって魅力的で、社会的に受け入れられやすいアルコール飲料として登場しました。軽くて甘く、スパークリングワインのようなおしゃれな雰囲気を持つベビーシャンは、従来の「女性らしい」とされた飲み物に比べ、より現代的で楽しい選択肢を提供しました。
ベビーシャンへの人々の反応と競合製品
ベビーシャンは、発売当初から特に女性たちの間で熱狂的に受け入れられました。それまで、女性がパブで気兼ねなく注文できるアルコール飲料はほとんどありませんでしたが、ベビーシャンの登場によって、女性たちは自信を持って自分の好きな飲み物を楽しむことができるようになりました。
その人気の理由は、ベビーシャンが持つ独特の魅力にありました。それは、軽快で甘く、微炭酸の飲みやすさ、そしてシャンパンのようなエレガントな雰囲気でした。アルコール度数も6%と比較的低く、強いお酒が苦手な女性にも受け入れやすかったと考えられます。また、専用のグラスで提供されることも、特別感を演出し、女性たちの心を掴みました。
1950年代当時、ベビーシャンと競合するような、軽くてスパークリングで、かつ女性をターゲットにしたアルコール飲料はほとんど存在しませんでした。女性向けの伝統的な飲み物としては、ポートワインやシェリー、ジンなどがありましたが 、ベビーシャンはこれらの選択肢に比べ、より現代的で魅力的なものでした。ベビーシャンは、まさに女性のための新しいカテゴリーのアルコール飲料を創出したと言えるでしょう
ベビーシャンが社会と飲酒文化に与えた影響
ベビーシャンの登場は、英国の飲酒文化に大きな影響を与えました。それまで男性中心だったパブにおいて、女性がアルコールを楽しむことがより一般的になり、社会的に受け入れられるようになりました。ベビーシャンは、「女性がパブで、軽蔑されることなく注文できる最初の飲み物」とも評されました。
また、ベビーシャンは広告の分野においても先駆的な役割を果たしました。英国の民間テレビで初めてアルコール製品として広告が放映されたのは、ベビーシャンでした。この成功により、他のアルコールブランドもテレビ広告を活用するようになり、広告戦略に新たな潮流を生み出しました。
さらに、ベビーシャンは、お祝い事や社交的な集まりの場で飲まれる飲み物としての地位を確立し、「世界で一番幸せな飲み物」「オリジナルパーティー・ドリンク」として広く認知されるようになりました。その軽快な味わいと華やかなイメージは、特別な瞬間を彩るのにふさわしいと人々に思われたのです。



ベビーシャンの販売状況の変遷と現在
ベビーシャンの販売は、1960年代に急増し、1973年6月には1時間あたり144,000本という驚異的な生産量を記録しました。しかし、1970年代後半から、競合製品の増加やアルコール広告規制の強化などにより、人気は徐々に衰え始めました。
1980年代には、「Nothing sparkles like a Babycham(ベビーシャンほど輝くものはない)」や「Hey, Babycham」といったスローガンを用いた広告キャンペーンや、1993年の大規模なブランド再構築など、再活性化の試みも行われました。
シャワーリング社は1968年にアライド・ブリュワリーズ(Allied Breweries)に買収され、ベビーシャンブランドもその傘下に入りました。その後、ブランドの所有者はアコレード・ワインズ(Accolade Wines)へと移りました。
そして2021年、ベビーシャンはシャワーリング家の兄弟たち(ブラザーズ・ドリンクス・リミテッド)によって再び買い戻されました。彼らは、ブランドの大規模な再構築と再発売を計画しており、ベビーシャンの復活に期待が高まっています。2010年代には、年間約1500万本のベビーシャンが販売されていたと報告されています。
現在でも、ベビーシャンはオンラインや一部の店舗で購入することができます。
結論
ベビーシャンは、フランシス・シャワーリングの発明から、ピーク時の圧倒的な人気、そして一時的な衰退を経て、再びシャワーリング家の手に戻ってきました。女性をターゲットにした最初のアルコール飲料であり、英国の民間テレビで初めて広告されたアルコール製品であるという歴史的な意義は大きく、英国社会における女性の役割の変化と飲酒文化の変遷を映し出す鏡のような存在と言えるでしょう。
その愛らしいロゴと「I’d Love a Babycham」のスローガンは、多くの人々の記憶に深く刻まれており、過去へのノスタルジアを呼び起こします。創業家による再度のブランド再構築によって、ベビーシャンがその輝きを再び取り戻し、新たな世代にも愛される飲み物として蘇るのか、今後の展開が注目されます。ベビーシャンは、これからも英国のパーティーシーンに、その独特の「輝き」をもたらし続けることでしょう。